始まりなんてない 終わりなんてない 037:焼け付くような こと恋愛に関しての悩みは時代も性別も超えて似通るのかもしれない。ライは卓上灯をつついて明かりを揺らした。保管上の問題として季節に関係なく空調が動いて湿度や室温は一定に保たれる。天井までびっしりと埋まるファイルや書物はそびえる塔だ。過度の明るさは紙やインクに良くないから照明は落とし気味。そもそもこんな資料室を訪うものの目的は決まっているから顔が曖昧になる程度の不便は見過ごされがちだ。帳面の文字が正確に読み取れればいいのである。ライは蜜色に透き通る髪を揺らして首を傾げた。肩が凝ったような気がしたのだ。手元にあるのは帳面だがこの資料室とは関わりのないものだ。堂々と読書できる場所としてライが人気のない資料室へ紛れ込んだだけだ。訪問者は目的の資料探ししかしないし、見つければさっさと退出してしまう。素知らぬ顔でライは長時間居座った。 ブリタニアという国に籍が生まれて、指摘されたとおりにライはどこの誰かも判らない異邦人ではなくなってしまった。それでも馴染めない風習はあるし習慣に不思議そうな顔もされる。無意識的に煙草を喫もうとして灰皿がないことに気づく。考えてみれば火気厳禁だ。あるわけもない。嘆息と同時に肩を落として磨かれた閲覧台へ突っ伏す。卓上灯の穏やかな明かりが目蓋の裏へじわじわとしみてくる。先を越されたっていうか。理不尽なわがままだと知ってもやりきれない。 「准尉?」 韻と響く声は切り裂くように意識へ割り込む。顔を上げた先には黒褐色の長い髪をまとめたギルフォードが立っていた。前髪を上げてあらわな額は秀麗に長い髪は背中へ届く。眼鏡のフレームから彼が理知的な性質であるのが判る。眼鏡が呼び起こす穏やかさとは無縁だ。隙があれば容赦なくついてくるだろう鋭さがある。 黙して返事をせず顔を向けるだけのライにギルフォードのほうが臆した。階級が違うか? …いえ、そこはいいんですけど。 「伏せっているから具合でも悪くしたかと思った」 ここの空気は独特だ。言いながらギルフォードはそう不快でもないような顔をする。年長であり所属の先輩でもある。ギルフォード自身が若い部類に入る所為か、年少のライに構ってくる。面倒を見るのが楽しいのかもしれない。叱られることもあるが悪い気はしなかった。 「ギルフォード、卿は」 ギルフォードの階級を忘れた。そもそも軍属に籍をおいた事自体が最近のこともあり関係者の位置を把握しきれていない。始まりがイレギュラーだっただけに習慣がまるで違う。ギルフォードは楽しそうに片眉だけつり上げた。特に叱責もなかった。 「姫様がご覧になりたいという資料に不備が見つかってな。時間もあるし探しに来たというわけだ」 姫様。ライがギルフォードとこうして親しげに話をするきっかけも姫様だ。コーネリア皇女殿下。皇位継承権も高く、女性でありながら前線で腕をふるう女傑。風当たりが強いようなきつさはあるが馴染んでしまえば苦にもならない。厳しいことを言う分、認めてくれることも多い。そしてこのギルフォードの正式な主だ。コーネリアとギルフォードは騎士という制度に結ばれそれ以上の結束がある。 好きな人の目線が固定されている時の対処法はなんだっけ。ギルフォードとコーネリアの面倒なところは主従として結ばれているのか男女として結ばれているのかが曖昧なところだ。以前、コーネリアは綺麗な女性だとこぼしたら叱られた。その叱られた文言がどうも曖昧だ。騎士という関係の厄介なところはそこにある。仕えること尊敬すること愛すること、異性としてみること。複雑に絡んで癒着したそれはもう分離不可能だ。しかも双方ともにまだ未婚なのがややこしい。 ライがギルフォードへの感情に気づいたのは最近だ。同時にやりきれなさに気がくじけた。ギルフォードの中でコーネリアというのは最優先事項なのだ。 「大丈夫か? …えっと…」 ライは気付かれないように嘆息してから、ライですと名乗った。所属の新参でもあり特例的な位置に特例的に参加していた。正式な軍属であるギルフォードの位置まで名前が伝わっているかも怪しいものだ。すまない。謝るときは素直だ。ギルフォード卿こそ資料の方は。探すの手伝いますか。資料室の蔵書はかなりのものになる。ギルフォードが安堵したような顔になる。 「急ぎではないのだが見つけておきたくてな」 それから資料についての話が続いた。分類や探索域を相談する。それではと互いに背を向ける。ライはしばらくしてから振り向いた。下の方の棚を探しているギルフォードのうなじが見えた。真珠のように仄白い照りと張り詰めた峰。黒褐色に透ける髪は乏しい光源で黒に見えた。長い髪を鬱陶しそうに払いのける仕草が艶めいた。威嚇的に鋭い眼鏡とは裏腹にギルフォードの性質は柔軟だ。薄氷色に透き通る双眸は蒼い。肌が白いせいか唇の紅さが目立つ。喉までおおう襟の釦をしっかりと留め肌の露出は少ない。露骨に肌を見せる働きかけではなくそれはあくまでも無自覚的なものだ。 いつからだろう、と思う。コーネリアや、古株のダールトン、短くはあったが上司であったロイドやセシル、スザクとも違う。彼ら彼女が呼ぶライの名と、ギルフォードが呼ぶライの名は違って聞こえた。叱りつけられ説教をされてもギルフォードの声を聞いているだけで気分は華やいだ。始まりはない。そもそもライは自分がなんであるかも知らないのだ。不確かで胡乱な世界にギルフォードの凛とした声は透き通る。名前を呼ばれるだけで、それだけでいいような気になった。ギルフォードが見ているのはコーネリアだけだ。言われずとも判る。見ていれば判る。 好き、なんだ 棚の奥へ引っ込んだライの視界で本の背の文字がにじむ。運命とは思わない。必然とも思わない。自分が相手を好きなぶん、相手も自分を好いていると思うほど楽観的でもない。感情の軋轢はライの中でがんがんと警鐘として鳴らされた。それは危険。それはだめ。行き過ぎる感情の末がろくなものにならないとは思っても具体性を帯びる危機感がある。それが何かもわからないのに。とにかくだめ。これ以上は危険。 目元を拭って字面を追う作業に没頭した。もともと事前知識のないライが総ざらいしたらすぐに見つかった。何だ分類が違うじゃないか。資料を持ってギルフォードの元へ行く。ギルフォードは律儀にまだ資料を探している。 「ありました。確認して下さい」 きょろりと動いた青い瞳が印象的だ。資料を確認してからギルフォードがふぅと笑った。ありがとう、これだ。助かる。中身を確かめるギルフォードの指先や口元へばかり目線が向いた。やわらかな黒髪が肩へ垂れてふわりと香る。有料なんですけど。礼儀知らずな物言いをしてもギルフォードが咎めない。面白いと言わんばかりに上がる口角にライは魅せられた。 「いくらだ?」 ライの白い手が伸びてギルフォードの頬へ添う。そのまま唇が重なった。背丈はまだギルフォードのほうがある。すくい上げるように舌をねじ込む。硬いながらも薄く開く歯列。深く食むように唇を合わせればギルフォードの口が開く。驚いたように集束する蒼い双眸。切れ上がる眦をライの爪がなぞる。 唇を舐めるようにして離れるライの暴挙にギルフォードからの叱責はなかった。ちゅる、と透明な糸が互いの口元をつないで切れた。眼鏡の硝子はも曇りなくすみ、その奥の双眸は静謐だ。 「これでいいのか」 「……はい」 淡々と確かめられてライの体を失望と疲労が襲った。ギルフォードの中でライの位置は低い。当然だと判っていても切なかった。両手が握りしめられる。俯けた顔が上げられない。ギルフォードの靴先が遠ざかる。顔を上げる。ゴクリと唾を飲んだ。戦慄く唇。 僕のことも見てよ 「…――…ッ!」 声にならない呼びかけが溢れようとした瞬間にふわりとしたものが触れる。眼前の怜悧な顔立ち。眼鏡がこつりと鼻筋に当たった。溢れそうな叫びが喉に詰まる。ふわりと翻る黒い幕は髪だ。触れるだけの幼いキス。それでも半ば開いた口元が離れると寂しくもある。 「このくらい、なんでも――…」 ギルフォードの言葉はそこでたち消えた。目を伏せるギルフォードの頬が赤かった。伏せる睫毛が震える。耳まで赤くしたギルフォードが逃げるように踵を返して立ち去った。 ライの指先が唇に触れる。ギルフォードの熱の残滓があるような気がして無意識的になぞった。 「その後が本題なのに…」 ライの口元が笑った。とさ、と書架へ体を預ける。紙がぎっしり詰まった書架はその程度では揺らぎもしない。頬に一筋だけの流れが走る。どこを見て何を言っているの。 火傷のように後を引く 《了》 |
そろそろ末期だな(私が) 2014年11月30日UP